弥生は、彼の言葉に答えなかった。10数秒後、友作は気まずそうに鼻を触りながら、軽く頭を下げた。おそらく、先ほどの会話があまりに気楽すぎたため、つい不用意な発言をしてしまったのだろう。それを思い出すだけで、友作は後悔の念に駆られた。しかし幸いなことに、数分後、弥生が自ら沈黙を破った。「友作、次の競売品、代わりに入札してくれる?」「次の品ですか?」友作は急いでカタログをめくって、中身を確認した。そこには、透明感のある見事な翡翠のブレスレットが載っていた。「これが気に入りましたか?」彼は少し驚いたような表情を浮かべた。弥生が翡翠の装飾品を好んでいるとはこれまで聞いたことがなかったからだ。だが、事前に弘次が「もし弥生が気に入るものがあれば、いくらでも入札し、必ず手に入れるように」と指示をしていたこともあり、友作は軽くうなずいた。弥生は静かに笑みを浮かべ、何も言わなかった。「分かりました。お任せください」次の競売品が登場する際、友作は真剣な表情で準備を整えた。まるでその翡翠のブレスレットが今夜の目玉商品であるかのような緊張感だった。弥生は、彼が気合いを入れている姿を見て、そっと口を開いた。「最初は少し様子を見てね」友作は大きくうなずいた。会場では次々と競りが進み、価格が次第に上昇していく。あっという間に、翡翠のブレスレットの値段は6億円に達した。さらに7億円になると、入札者の数が減り、競り合いは2人だけとなった。弥生は隣に座る友作に軽く目配せをし、「そろそろ」と合図を送った。友作は頷き、入札の札を上げようとしたその瞬間、前方の席から声が響いた。「8億円」友作が出そうとした金額と同じだったが、一歩先に宣言されてしまった。彼は長年弘次の指示を受けている経験から、少し考えた末、さらに大胆な一手を打つことを決めた。「9億円」隣に座る弥生が反応する前に、友作はすでに札を上げていた。弥生は唇を動かしたが、何も言わなかった。ただ、友作の「絶対に勝つ」という気迫を見て、少し考えを巡らせていた。その頃、奈々も再度入札の準備をしていた。奈々は今回の競売で何かを買うつもりはなかったが、瑛介と一緒に来たこともあって、注目を集める絶好の機会を逃したくないと考えていた。彼女は瑛介の隣に座りながら、
弥生が加えて何か言おうとしたとき、友作はまた札を上げた。「10億円」10億円という金額は、大富豪家族にとってそれほど驚くべきものではないが、この翡翠のブレスレットを巡る競り合いでは、奈々もまさかここまで価格を引き上げられるとは思っていなかった。特に今日、彼女は瑛介と一緒に来ているため、周囲の人々はその関係を配慮して、敢えて彼女と競り合うことは避けるだろうと思っていた。だが、現実は違った。「やはり、私は軽視されているのね......」そう思いながら、奈々は唇を軽く噛んだ。そして再び札を上げた。「11億円」その直後、友作も間髪入れずに続けた。「12億円」彼女はこの品がほしいのを示したことに後悔した。会場内では、ざわざわとした囁き声が広がり始めた。翡翠のブレスレットごときでこれほどの競り合いになるとは誰も思っていなかった。価格が12億円に達し、奈々は再び唇を噛んで札を上げた。「13億円」それを見た友作がまた札を上げようとした瞬間、隣の弥生が彼の動きを止めた。「もうやめて」「でも、黒田さんのご指示では......」弥生は静かな目で彼を見つめた。「もうこのブレスレットは要らないの。私が気に入らないものを買って、弘次の代わりに私に贈るつもり?」その言葉に、友作は一瞬驚き、動きを止めた。確かに、彼の目的は弘次の代わりに弥生を喜ばせることだった。だが、ここで彼女の意に反してまで強引に進めれば、かえって逆効果になるかもしれない。結局、友作は諦めることを決めた。「分かりました。ただ、次に何か気に入るものがあれば、教えてください」弥生は微笑んで、軽く頷いた。しかし、友作はこう思った。「彼女が次に何か気に入るものを見つけたとしても、それを表に出すことはもうないだろう」奈々は、13億円という金額で翡翠のブレスレットを手に入れた。周囲の人々からの囁き声が彼女の耳に届き、彼女は勝ち誇ったように背筋を伸ばした。「13億円......これで今日の私は十分目立てただろう」彼女は心の中でそう思って、明日には「自分が瑛介とともにオクションに出席し、13億円の翡翠のブレスレットを競り落とした」というニュースが広まると確信していた。メディアは注目を集めるために、きっとそれを「瑛介が奈々に
奈々は手元の競品カタログをめくりながら、瑛介のそばにそっと寄り添い、小声で言った。「お母さんが欲しいもの、そろそろ出てくるわ」「うん」瑛介は短く冷たく返事をしただけで、目線は相変わらずスマートフォンの画面に落ちていた。奈々は唇を軽く引き結んだ。彼は座ってからずっとスマホを見ていた。目玉の品が登場するまで、ほかの出品には全く興味を示さないようだ。しかし、そんなに興味がないにしても、彼はよくスマホをいじる人ではなかった。一体、何をそんなに見ているのかしら?気になった奈々は、ちらりと瑛介のスマホ画面を覗いた。目に飛び込んできたのは、なんと2人の子どもの写真だった。えっ......子ども?彼が子どもの写真を見ているなんて......?一瞬、自分の目を疑った奈々だったが、次の瞬間には画面が暗くなり、瑛介が冷たい視線を彼女に向けた。「何?」瑛介の声が低く響いた。奈々は慌てて首を振り、言い訳をした。「何でもないわ。ただ、ちょっと声をかけたかったけど......」「うん」瑛介はスマートフォンをしまい、前方のステージを見つめた。奈々も、その場に居心地の悪さを覚えながら、背筋を伸ばして座り直した。しかし、どうしても胸の中に不安が湧き上がってくる。瑛介が子どもの写真を見るなんて、一体どういうこと?彼のスマホにそんな写真が入っているなんて、これまで一度もなかったはずだ。それに、近年は仕事一筋で、子どもなんて彼の関心にならないはずだ。ふと頭をよぎったのは、その子どもたちが瑛介に似ているように思えた一瞬の記憶だ。ぞっとした奈々の顔から血の気が引き、唇の色も失われた。まさか......本当に?過去に、瑛介が酒に酔っている隙をついて子どもを作ろうとする女性たちが何人もいたことを思い出した。さらには、そのために子どもに美容手術まで施し、瑛介に付き合わせようとしたケースもあった。あまりの行動に、宮崎グループは声明を出し、そんな企てを防いだ。それでも今日の瑛介の態度は異様だった。彼自身が自ら子どもの写真を見つめているのだ。胸に湧いた不安と嫉妬が交錯し、奈々の気分は完全に沈んでしまった。オクションもいよいよ最高潮を迎え、最後の競品が登場するタイミングとなった。司会者は興奮した
前回は謎の人物が高額でこの品を落札した。会場にいる人々は、この人が誰なのかを推測していたが、駿人が入手したとは誰も思っていなかった。弥生は何かを思い出し、隣の友作に尋ねた。「この福原駿人って......」友作は、彼女の考えを察したかのように、彼女の質問を最後まで聞かずに答えた。「それは以前霧島さんを引き抜こうとしていた益田グループの人です」やはりその益田グループだったのか。弥生は会場を眺めながら、唇をわずかに持ち上げた。「なかなかやるわね」「ええ」友作はうなずいた。「確かに腕があって、度胸もあるようですが。この品までをも手に入れたのは不思議ですね。」会場ではすでに競売が始まっていた。友作はため息をつきながら言った。「今日の勢いから見れば、いくらで落札されるのか想像もつきませんね」貴重な品であるため、開始価格も非常に高かった。次々と価格が競り上がって、わずか数分で80億円に達した。80億円、100億円......オークション会場で響く数字は、実際にあったお金ではなく、ただの数字のように軽々と扱われていた。「120億円!!」司会者が驚きの声を上げて、興奮して名前を口にした。「宮崎様が120億円の価格を提示されました。それ以上の価格を出される方はいらっしゃいますか?」「宮崎」という苗字を聞くと、友作は思わず弥生の方を見た。しかし、弥生はその苗字を聞いてもまるで気にしない様子で、平然とした表情で座っていた。だが友作の心はざわめいていた。ここは海外ではなく、日本だ。それも南市の近くにある都市、早川だから。早川だけでなく、国内全体を見渡しても、この価格を提示できて、さらに宮崎という苗字を持つ人物とすれば、宮崎瑛介に違いない。友作は自分が推測できたのなら、弥生もきっと同じように察しているはずだと思った。だが、彼女の平然とした様子から、既に気にしていないと感じ取った。そうだ、5年もの時間が経ったのだ。5年というのは、長くも短くもないが、多くのことが薄れてしまったのだろう。友作はそう思うと少し安堵して、再び入札を続けた。120億円という金額が、多くの人々の足を止めていた。どれだけこの品を気に入ったとしても、限界を超える金額になると、誰もが慎重になるものだ。結果、価格争い
雨はますます激しくなり、廊下は半分まで濡れていた。弥生は身に着けていたスカーフを引き寄せた。こんなに寒いとは思っていなかった。立ち止まったものの、弥生は少しぼんやりしていた。今夜耳にした「宮崎さま」という呼び名を思い返していた。以前のように、この苗字を聞いても心が揺れることはもうなかった。しかし、今夜の「宮崎さま」が、以前仕事中に出会った「宮崎さま」ではないことは分かっていた。ここは日本であって、それに早川なのだ。120億円もの金額を即座に出せて、それにこの場に招かれる宮崎という人物は、彼しかいない。もう5年も会っていないのか。弥生は深く息を吸い、別の方向へと歩き出した。「霧島さん」数歩進んだところで、長身で清潔感のある男性が彼女の行く手を遮った。弥生は驚いて、その男性を見上げた。男性はブルーのスーツを着ており、ネクタイがきっちりと締められていた。彼女が顔を上げたのを見ると、彼は微笑みながら自己紹介を始めた。「初めまして、福原駿人と申します」福原駿人?さっき話していた福原家の後継者?弥生がぼんやりしているのを見て、駿人は眉を上げて言った。「霧島さん、私のことをご存じないですか?これまで何度もあなたに入社の招待を出してきたのに、私のことをご存じないとは」「いええ、そんなことはありません。存じております。初めまして、よろしくお願いします」弥生は彼の手を握り返しながら答えた。「ただ、福原さんがここにいらっしゃるのが不思議だと思いまして」弥生は益田グループの新任リーダーの顔を知らなかったが、知っているふりをすることに支障はなかった。これから早川で会社を設立する予定の彼女にとって、地元企業との関係を築くことは重要だった。柔らかくしなやかな女性の手を握った駿人は、一瞬驚いたような表情を浮かべた。一触即発の瞬間、弥生はすぐに手を引っ込めた。駿人は彼女を暫く見て、尋ねた。「ところで、どうしてこちらに?」「座っていると疲れるので、少し気分転換に来ました」「なるほど」駿人は眉を上げ、続けて聞いた。「ちょっと教えていただきたいことがあります。これまで何度も僕の入社招待を断られていますが、その理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?僕が提示した条件は、以前のお勤め先よりもずっ
助手は頭を掻きながら思った。自分の提案が、こんな風に理解されるとは思わなかった。駿人が去った後、弥生はようやく我に返り、身にかけられたジャケットを脱いで追いかけたが、彼の姿は見当たらなかった。仕方なく会場へ戻り、入口でスタッフに駿人のジャケットを手渡した。「すみませんが、このジャケットを後で福原さんにお返しいただけますか?」さっき駿人と弥生が話しているのを入口で見ていたスタッフたちは、すっかり噂話モードだった。駿人がプレイボーイであることは有名で、気に入った女性を見つけてはすぐに手を出すと言われている。そんな彼が、会場で美人にジャケットを渡すなんて、明らかにその女性に興味がある証拠だと思ったのだ。スタッフは慌てて手を振った。「いいえ、できかねません。福原さんがあなたに渡したものですから、ご自身でお返しになった方が良いです」「でも、彼がどこに行ったのか分からないんです」「連絡先を交換されましたよね?」どうやらスタッフたちは側で一部始終を見られていたようだった。しばらく弥生がその場に立ち尽くしていると、別のスタッフが丁寧に説明した。「お客様、私たちはただの会場スタッフで、福原さんに直接お会いする機会は滅多にありません。なので、このジャケットを私たちが預かったとしても、本人に届けるのは難しいのですよ」この説明を聞き、弥生は納得した。「分かりました、ありがとうございます。じゃあ、いいわ」彼らに負担をかけることなく、弥生はその場を離れた。会場の中を一瞥し、もう一度ロビーを見渡した後、彼女はスタッフに尋ねた。「少し外で休憩してもいいですか?」スタッフはすぐに快く答えた。「もちろんです、お連れいたします」外はまだ激しい雨が降り注いでいた。スタッフは傘を差して彼女を目的地まで案内した。目的に着くと、弥生はスタッフに微笑みかけて感謝の意を示した。「ありがとうございます」弥生の肌は白く、艶やかな黒髪が背中まで垂れている。その自然な美しさに加え、どこか上品で控えめな香りが漂っており、彼女の近くにいるだけで心地よさを感じる。この笑顔に、スタッフは顔を赤らめた。「い、いえ、とんでもないです。それでは失礼します」スタッフが去った後、弥生は周囲を見渡し、静かな場所に歩いていき腰を下ろし
彼の隣には、繊細で美しい女性の姿があった。ピンク色の床まで届くロングドレスを着ており、雨に濡れて裾が少し乱れていたものの、気品の良さは隠しきれていなかった。彼女はそっと男性の腕に寄り添っている。二人の姿は完璧なカップルのように見えた。「もう二度と会わないと思っていたのに、再会するとは。それもこんな形で......」心の中で呟きながら弥生は立ち尽くした。この数年で、彼らはきっと一緒になったに違いない。子供もひなのと陽平と同じくらいの年齢になっているだろう。考えに耽る弥生に、男性が何かを察したように振り向いて目を向けてきた。弥生は思わず息を呑み、反射的に背を向けた。さっき......見られていないわよね?弥生は体が硬直し、その場から一歩も動けなくなった。すると後ろから友作の声が聞こえた。「霧島さん?」彼女の指先がかすかに動いたが、振り返ることはできなかった。友作が彼女の前に回り込んでくる。「どうかしましたか?」「あっ、もう終わったの?」「ええ、終わりました。すでに品が渡されました」「落札できた?」「もちろんです」友作は頷きながら少し残念そうに付け加えた。「ただ、かなりの金額を使いました。あの宮崎さんが......」口を滑らせそうになったが、途中でハッとして言葉を飲み込んだ。二人とも空気を読み取った。しばらくの沈黙の後、弥生が言った。「もう終わったなら、帰りましょう」「分かりました」弥生は友作を観察した。彼の自然な様子を見て、瑛介はもう会場を離れたのだろうと思った。瑛介がまだいたら、友作は自分より緊張しているはずだ。そう気づいてから、彼女はゆっくりと振り返った。案の定、先ほどの喧騒は収まって、人混みもほとんど消えていた。あの目立つ男女の姿も、もう見当たらなかった。弥生の張り詰めていた気持ちがようやく和らいだ。夜、弥生と千恵が再び外出することを知った友作は心配になった。「こんな遅い時間に出かけるのは危ないですよ......」友作が心配げに言うと、すぐさま千恵が反論した。「あら、夜10時って遅いの?あなたはまだ若いのに、おじいさんみたいよ!」「いや、夜道は危険だということですよ」「危険なはずはないよ。安心して」弥生も千
何かを思い出したように、弥生は時間を確認し、千恵に尋ねた。「あの男は?」これを聞いた千恵の表情がみるみるうちに曇っていった。「この時間に、彼が来るかどうかなんて全然分からないわ」弥生は彼女の落ち込んでいる様子を見て、微笑みながら肩を軽く叩いた。「大丈夫よ。運試しだと思えばいいじゃない。もし彼が来なくても、ここで少しゆっくり過ごすだけでもいいし」千恵はすぐに笑顔を取り戻し、親しく彼女の腕にしがみついた。「弥生ちゃん、やっぱり最高ね!私たち、これからもずっと一緒よ!」その後、二人はしばらくバーでのんびりしていた。その間に三、四人の男性がワイングラスを持って弥生に近づき、一緒に飲もうと誘ってきたが、彼女は丁寧に断った。最初の数人は拒否されても潔く立ち去ったが、最後の一人だけはその場を離れず、不思議そうに尋ねた。「すみません、どうしてですか?」これを聞いて、弥生は眉を上げた。「断る理由を教えてもらえますか?」と、男性は軽く笑いながら言った。「友達になるくらいなら、別に構わないと思うのですが」弥生は相手の意図を見抜いたようで、落ち着いて答えた。「既婚者だからです」その言葉を聞いて、男性の目には驚きの色が浮かんだが、すぐに残念そうに肩をすくめた。「失礼しました、それじゃ......」彼が去った後、千恵がからかうように言った。「あなた、やるわね。昔はもう少し優しかった気がするけど、今は強く断ることができるようになったみたいね」弥生は肩をすくめた。「その方が良くない?余計な手間が省けるし」「そりゃそうだけど、こんな風にしてたら、縁は消えちゃうわよ。再婚したくなくなるかもよ?」「再婚?子ども二人いるんだから、男なんて必要ないでしょ?」その言葉を聞いて、千恵は弥生の可愛い子どもたちを思い浮かべて、羨ましそうに言った。「ずるい!私もそんな可愛い子どもがいたら、きっと男なんていらないって思うわ。でもさ、次にあの男に会ったら、子供をもらえないか頼んでみようかしら?」弥生は彼女の言葉を聞いて、飲み物でむせた。千恵は慌てて声を上げた。「大丈夫?!」彼女はすぐにティッシュを取り出して弥生を拭おうとしたが、飲み物が彼女の白いコートにこぼれ、大きなシミを作ってしまった。「もう落ちないね。
瑛介が返事をしないまま沈黙していると、綾人が再び口を開いた。「弥生は、まだ意識が戻ってないんだろ?」その言葉に、ようやく瑛介は反応し、冷たく答えた。「問題ない。あの二人は頭がいいから」彼がその場にいなくても、あの二人ならきっと対応できる。特に陽平なら、母親の面倒をしっかり見られるはずだ。「とはいえ、あの子たちはまだ若いんだ」綾人は言った。「もし何かあったら......」「僕がここで見てるから」瑛介が鋭く遮った。「......分かったよ」「ここにはもうお前は必要ない。帰っていい」綾人は、今の瑛介の態度を見て、これ以上話をしても無駄だと感じた。それでも彼は少しだけ考えた末、もうそれ以上何も言わずに、廊下のベンチに向かい、静かに腰を下ろした。瑛介は病室の外で壁にもたれ、スマホを取り出して健司に電話をかけた。通話が終わり、スマホをポケットにしまおうとした瞬間、何かを思い出して顔色が変わった。すぐさま振り返り、病室のドアを勢いよく開けた。彼が目にしたのは、二人の子供が寄り添い合いながら、弥生のスマホを手にして電話をかけようとしている姿だった。音に気づいた二人は、同時に顔を上げて瑛介の方を見た。その姿を見たひなのは、すぐに嫌そうな顔になり、唇を尖らせて彼に近づき、また追い出そうとした。でも、瑛介はすぐに大股で近づき、二人の目の前でしゃがみ込んだ。「スマホ、何に使おうとしてた?」陽平は唇をきゅっと引き結び、何も答えなかった。代わりにひなのが腰に手を当て、不満げに言った。「おじさん、ノックもしないで勝手に入ってきて!邪魔しないでよ!」瑛介は今、それに構っている余裕はなかった。彼の注意は、陽平の手にあるスマホに完全に向いていた。彼は手を差し出して言った。「スマホをおじさんに貸してくれるか?」陽平はスマホを後ろに隠しながら言った。「ママのスマホだ。おじさんのじゃない」「もちろん、それは分かってる」瑛介はにこりと笑って言った。「でもママは今寝てるだろ?一応おじさんが預かっておいた方がいい。もし落としたら壊れるかもしれないからね」ひなのがすかさず反論した。「そんなことないもん!私もお兄ちゃんも、スマホ一回も落としたことない!」「そうなんだ」瑛介はひなの
瑛介は聡のことを簡単に許すつもりはなかった。その言い方に滲み出る怒りを、綾人も敏感に察したらしく、わずかに苦笑を浮かべながら口を開いた。「今夜のことは、正直ここまでになるとは思わなかった。でももうこうなった以上......弥生の様子は?」瑛介は唇を引き結び、返事をしなかった。明らかに、綾人を無視するつもりだった。綾人もそれを察して、それ以上は何も言わず、静かに椅子に座った。しばらく沈黙が続いた後、瑛介が不意に言った。「お前、ここにいなくていい」「黙ってここにいるだけでもダメか?」「ダメだ」「......それはあんまりじゃないか」「僕はあんまりな人間だ」そう言われてしまっては、綾人にもどうしようもなかった。だが彼はそれでも席を立たず、ただ座っていた。しばらくして、まるで何かに触発されたかのように、瑛介が顔をこちらに向けた。鋭く暗い目で綾人を睨みつけ、低く言った。「僕に手を出させたいのか?」もしここに子どもたちがいなければ、瑛介はとっくに彼の襟元をつかんで、別の場所に連れ出していただろう。「そうか?なら試してみろよ」「僕がやらないとでも思ってるのか?」と、彼は静かな口調に鋭い響きを込めて言った。ちょうどその時、救急室のランプがふっと消え、に扉がゆっくりと開いた。さっきまで怒気に満ちていた瑛介は表情を一変させて立ち上がり、ドアの方へ向かった。一緒にいたひなのと陽平も、すぐに立ち上がって、駆けて行った。綾人もそれを見て、立ち上がり、彼らの後を追った。「先生、どうですか?」瑛介の声は、さっきまでの冷たさとは違い、少しだけ柔らかくなっていた。だが、抑えた低音が静まり返った廊下に響くと、どこかしら掠れて聞こえた。医師は数人を見渡した後、こう尋ねた。「どなたが霧島さんのご家族ですか?」「僕です」瑛介が答えた。「そうですか。患者さんは頭部に外傷を負っていますが、今のところ大きな問題はなさそうです。ただ、今後さらに検査が必要です」「......さらなる検査?」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の目つきは一段と鋭さを増し、喉の奥で「聡」という名前を噛み砕くような、激しい怒りがこみ上げてきた。「今の状態は?」「現在は安定しています。ただ、頭部を傷めているため、しば
正直なところ、それで行けるのだ。なぜなら、ひなのは瑛介の言葉を聞いて手を上げてみたところ、確かに脚よりも叩きやすかったからだ。さっき瑛介が椅子に座っていたときは、彼の脚に手が届くように一生懸命つま先立ちしないといけなかった。でも今は、彼が自ら頭を下げているから、まったく力を使わなくても簡単に手が届く。ただ、目の前にいる瑛介の顔は、近くで見ると目がとても深くて黒く、表情も鋭くて、少し怖い。ひなのはその顔を見て、急に手を出すのが怖くなった。おそるおそる彼の顔を見たあと、一歩後ずさった。その小さな仕草も、瑛介にははっきり見えていた。「どうした?」ひなのは唇を尖らせて言った。「もし、おじさんが叩き返してきたらどうするの?」手も大きいし、もし本気で叩かれたりしたら、自分なんてきっと一発でペチャンコにされちゃう——そんなことを考えれば考えるほど、ひなのは怖くなってしまい、くるりと背を向けるなり一目散にお兄ちゃんのところへ駆け出していった。瑛介は完全に顔を叩かれる覚悟までしていたのに、まさか彼女が急に逃げ出すとは思ってもいなかった。ホッとした気持ちとともに、なぜか少しばかりのがっかり感がこみ上げてくる。娘に頬を叩かれるって、どんな感じなんだろう?そんなことを考える自分に、思わず苦笑してしまう。いやいや、何を考えてるんだ。叩かれて喜ぶなんて、自分はマゾかとさえ思い、頭を振って気を引き締めた。雑念を払って、救急室の扉を真剣に見守ることに集中することにした。弥生は無事でさえいてくれたら、それだけで十分だった。一方、ひなのが陽平のもとへ駆け戻ると、陽平は大人のように彼女を椅子に座らせ、優しく涙を拭ってあげた。その後、彼もつい瑛介の方を一瞥した。静かに目を伏せている彼の姿は、あれほど背が高いのに、どこかひどく寂しげに見えた。陽平は唇をきゅっと結び、小声で言った。「ひなの、これからはあのおじさんに近づいちゃだめだよ」以前は、寂しい夜さんをパパにしたい!とまで言っていたひなのだったが、今はすっかり気持ちが変わったようで、力強くうなずいた。「うんうん、お兄ちゃんの言うこと聞く!」陽平は、ようやく妹がもうあの人をパパだなんて言い出さないことに安心した。これなら、ママも安心してくれるはずだ
さらに、泣きすぎて目を真っ赤にした二人の子供もいた。それを見て、警察官たちは事態を即座に理解し、真剣な表情で言った。「こちらへどうぞ、ご案内しますので」その後、警察は自ら先導して道を開け、近隣の病院へ事前連絡までしてくれた。パトカーの支援を受けたことで、ようやく車は予定より早く病院へ到着した。車が止まると同時に、瑛介は弥生を抱きかかえて一目散に病院内へ駆け込んだ。二人の小さな子供も、必死について走ってきた。その後の処置の末、弥生はようやく救急室へと運ばれた。救急室には家族であっても入れない。瑛介は二人の子供と一緒に、外で待つしかなかった。今は周囲に誰もおらず、救急室の前の廊下も静まり返っている。瑛介は陽平とひなのを自分のそばに座らせた。「しばらくかかるかもしれない。ここで待とう」陽平はとても聞き分けがよく、何も言わず、ただ静かにうなずいた。けれど、瑛介のすぐそばには座らず、少し離れた場所に腰を下ろした。彼が何を思っているのか、瑛介には分かっていた。しかし、その位置からなら様子を見ていられるし、安全も確保できるので、強くは言わなかった。一方で、ひなのは自ら彼のもとへ歩み寄ってきた。瑛介は一瞬驚いた。もしかして許してくれたのかと思ったが、彼女は彼の前に来るや否や、小さな拳で彼の太ももをポカポカと叩き始めた。「ひなのはあなたが大嫌い!」ぷくぷくした小さな手が絶え間なく彼の脚を叩きつづけた。泣きじゃくりながら怒るひなのは、まるで花がしおれたような子猫を思わせ、瑛介の胸をきゅっと締めつけた。彼は黙ったまま動かず、叩かせるがままにしていた。やがて、ひなのが疲れてきたのを見て、瑛介はそっと彼女の手を握った。「もう、疲れたろう?ね、もうやめよう」ひなのは力いっぱい手を引こうとしたが、離せずにぷくっとした声で怒った。「放してよ!おじさん大嫌いなんだから!」瑛介は彼女の顔を見て、困ったように言った。「じゃあ、おじさんと約束しよう。もう叩かないって言ってくれたら、すぐ放すよ」その言葉を聞いて、ひなのはわあっと再び泣き出し、ぽろぽろと涙を流した。「おじさんは悪い人!ママをこんな目にあわせたくせに、ひなのに叩かせないなんて!」その姿に、瑛介はまたもや言葉を失った。か
陽平はもうそうするしかなかった「うん、任せて」「よし、それじゃあ君とひなのでママを頼むね。病院に連れて行くから」「うん」瑛介は陽平の返事を聞いてから、視線を弥生の顔へと戻した。その額の血は、彼女の白い肌に際立ち、ぞっとするほど鮮やかだった。瑛介は慎重に彼女をシートに寝かせ、座席の位置を調整した。そして、二人の子どもを左右に座らせ、走行中に彼女がずれ落ちないよう、しっかり支えるよう指示した。すべての準備が整った後、瑛介は車から降りた。ドアが閉まった音と同時に、陽平は目尻の涙を拭い、弥生の頭を優しく支えながら、小さく囁いた。「ママ、大丈夫だから。絶対に助かるよ」ひなのも泣き疲れていた。先ほどまでキラキラしていた瞳は、今や涙でいっぱいになり、大粒の涙がポロポロと弥生の足元にこぼれ落ちていった。「ひなの、もう泣かないで」隣から陽平の声が聞こえた。その声に、ひなのは涙に濡れた目を上げた。「でも......ママは死んじゃうの......?」その言葉に、陽平は強く反応した。彼は驚いて妹の顔を見つめ、目つきが変わった。「そんなこと言っちゃダメだ!」ひなのはビクッと震えて、しゃくりあげた。「でも......」「ママはちょっとおでこをケガしただけ!絶対に死なないから!」車は大通りに入った。瑛介の運転はスピードこそ速かったが、ハンドルさばきは安定していた。バックミラー越しに見える二人の子どもが、必死に弥生を守っているのが分かり、その声が耳に届くたび、彼の胸が裂けるように痛んだ。彼は眉をひそめ、重い口調で言った。「陽平、ひなの......絶対に君たちのママを助ける。信じてくれ」その最後の「信じてくれ」は、絞り出すような声だった。陽平は黙ったまま、弥生の血の滲んだ額を見下ろし、顔をしかめていた。その時、ひなのがぽつりと不満げに言った。「ひなのはおじさんのことが嫌い」その言葉に、瑛介のハンドルを握る手が一瞬止まった。しばらくの沈黙の後、彼は苦笑しながら言った。「嫌われてもいい。まずは病院に行こう」ママがこんな状態なのに、娘に好かれる資格なんてあるはずがない。すぐそばにいたのに、大切な人を守ることができなかった。娘まで危険な目に遭わせてしまった。その罪悪感は、今まで
奈々は自分の下唇を噛みしめ、何か言いたげに口を開いた。「でも......ここまで騒ぎになったんだし、私にも責任があると思うの。私も一緒に行って、弥生の様子を見てきた方が......」「確かに、今回の件は僕たちにも責任がある」綾人はそう言って彼女の言葉を遮った。「でも今の瑛介は、おそらく怒りで冷静じゃない。だから、君はついてこない方がいい」そう言い終えると、綾人は奈々をじっと見つめた。その視線は、まるで彼女の中身まで見抜いたかのような鋭さだった。一瞬で、奈々は何も言えなくなった。「......そう、分かったわ。でも、後で何かあったら必ず私に連絡してね。五年間会っていなかったとはいえ、私はやっぱり弥生のことが心配なの」綾人は軽くうなずき、それ以上何も言わずに携帯を手にしてその場を離れた。彼が完全に視界から消えたのを確認した後、奈々は素早くその場で向きを変え、聡のもとへと駆け寄って、彼を助け起こした。「さあ、早く立って」奈々が突然駆け寄ってきたことに、聡は驚きつつも喜びを隠せなかった。「奈々、ごめんない......」「立ち上がって話しましょう」奈々の支えを受けて、聡はようやくゆっくりと立ち上がることができた。彼が完全に立ち上がったのを確認してから、奈々は彼の様子を気遣うように尋ねた。「体は大丈夫?」聡は首を振ったが、何も言わず、ただ呆然と彼女を見つめていた。「そんなふうに見つめないでよ。さっき私が言ったことは、全部君のためだったのよ」「俺のため?」「そうよ。よく考えてみて。今夜君があんな場で暴力を振るったら、周りの人たちは君をどう見ると思う?そんな中で私が君の味方についたら、どうなると思う?君の人柄が疑われて、私まで巻き添えになるかもしれないでしょ?だから私は、あえて君を叱るフリをしたの。がっかりしたフリをして、君が反省したように見せれば、誰も君を責めないわ」「反省したフリ?」その言葉に、聡は少し混乱した。彼は本当に反省していた。あの暴力的な行動を自分自身で恥じ、変わろうと思っていた。でも今の奈々の言葉は、それとは違う意図に聞こえる。......とはいえ、奈々は美しく、優しい。彼女がそんな策略を考えるような人だなんて、彼には到底信じられなかった。最後に、聡は素直
彼は弥生の額から血が流れていたのを見たような気がする。しかも、自分は子供を蹴ろうとした?自分はいったい、どうしてしまったのか?そんな思考が渦巻く中、綾人が彼の前に立ち、冷たい目で見下ろした。「聡、正気だったのか?何をしたか分かってるのか?」「俺は......」聡は否定しようとしたが、脳裏には弥生の額から血が滲むあの光景が蘇り、一言も出てこなかった。ようやく、自分の行動がどれだけ非常識だったかに気づいた。しかし......彼は奈々の方へ目を向けた。せめて彼女だけでも、自分の味方でいてくれないかと願っていた。そもそも、彼がこんなことをしたのはすべて奈々のためだったのだから。奈々の心臓はドクンドクンと高鳴り、心の奥では弥生に何かあればいいのにとすら思っていた。だが、綾人の言葉を聞いた後、その邪な思いを慌てて胸の奥にしまい込み、失望した表情で聡を見つめた。「手を出すなんて、君はやりすぎたわ」ここで奈々は一旦言葉を止め、また口を開いた。「それに、相手は子供よ。ほんの少しの思いやりもないの?」聡は頭が真っ白になり、しばらく口を開けたまま固まった。ようやく声を出せたのは数秒後だった。「だって......全部君のためだったんだ!」もし奈々のためじゃなかったら、自分がこんなにも取り乱すはずがない。弥生とその子供たちに、彼には何の恨みもなかった。彼が彼女たちを攻撃する理由なんて、どこにもなかったのだ。その言葉を聞いた奈々の表情は、さらに失望に満ちたものとなった。「感情に流されてやったことなら、まだしも少しは理解できたかもしれない。でも、『私のため』ですって?そんなこと、人前で言わないでよ!まるで私が子どもを傷つけさせたみたいじゃないの!」「今日まで、私はあの子供たちの存在すら知らなかった。弥生がここに来るなんて、私には想像もできなかったのよ」奈々がこれを言ったのには、明確な意図があった。綾人は瑛介の最も信頼する友人であり、もし聡の言葉が綾人に悪印象を与えたら、今後彼に協力を求めることが難しくなる。だから奈々は、普段どれだけ聡に助けられていても、今この場面では彼を切り捨てるしかなかった。どうせ聡は、彼女にとってはいつも都合のいい人でしかない。あとで少し優しくすれば、また戻ってくる。
そこで、まさかのことが起きた。弥生のそばを通り過ぎるとき、突然聡が何を思ったのか、彼女の腕を乱暴に掴んできたのだった。「ちょっと待って。本当に関係ないなら、子供を二人も連れてここに来るなんて、おかしいだろう!」弥生がもっとも嫌うのは、事実無根の中傷だった。そして今の聡の言葉は、まさに彼女に対する侮辱だった。弥生の目つきが一瞬で冷たくなり、皮肉な笑みを浮かべながら言った。「ねえ聡、瑛介と奈々っていつもカップルに見えるの?」ちょうど近づいてこようとしていた瑛介は、この言葉を耳にして足を止め、弥生の後頭部を鋭く見つめた。この問いかけは、一体どういう意味だ?「もちろんだ!」聡は歯を食いしばりながら怒鳴った。「奈々の方があんたなんかより何倍もいい女だ!瑛介にふさわしいのは、彼女しかいないんだよ!」「じゃあつまり、二人はカップルに見えるのに、あなたは奈々を今でも想ってるってことね?」聡は一瞬言葉に詰まり、予想外の展開に呆然とした。弥生はそんな彼を見つめ、嘲笑を浮かべながら口元を引き上げた。「あなたに私を非難する資格あると思うの?」その言葉の鋭さに、聡は言い返すこともできず、ただその場に立ち尽くしてしまった。ようやく我に返った時には、弥生はもう彼の手を振り払って前へ進んでいた。慌てた聡は奈々の方を振り向いて言った。「奈々......」だが、返ってきたのは、奈々のどこか責めるような、そして複雑な感情を秘めた視線だった。その視線に、聡のこころは一気に締めつけられた。まずい、弥生の言ったこと、奈々の心に残ってしまったかもしれない。もしかしたら、もう自分を近づけてくれなくなるかもしれない。そう思った瞬間、聡の中で沸き上がったのは、弥生への怒りだった。全部、彼女のせいだ。彼女が余計なことを言わなければ、奈々のそばにいられるチャンスはまだあったのに。「待て!」聡はそう叫ぶと、弥生に再び近づき、肩を掴もうとした。その瞬間、弥生に連れられていたひなのが、眉をひそめて前に飛び出し、両手を広げて彼を止めようとした。「ママにもう触らないで!」その顔は瑛介にとてもよく似ていて、それでいて弥生の面影も強く感じられる顔だった。その顔を見た瞬間、聡は怒りが爆発し、反射的に足を振り上げた。「どけ!ガキ
母の言う通りだった。あの言葉を口にしてから、瑛介は確かに彼女に対する警戒を解いた。かつて命を救ってくれた恩がある以上、奈々は依然として特別な存在だった。そして弥生は既に遠くへ行ってしまっていた。五年もの時間があった。その機会さえ掴めば、再び瑛介の傍に戻ることは決して不可能ではなかったのだ。ただ、まさか瑛介が五年の歳月を経ても、気持ちを変えることなく、彼女に対して終始友人として接し続けるとは思いもしなかった。一度でもその線を越えようとすると、彼は容赦なく拒絶してくる。だから奈々はいつも、退いてから進むという戦術を取るしかなかった。「奈々?」聡の声が、奈々の意識を現実へと引き戻した。我に返った奈々の目の前には、肩を握って心配そうに見つめる聡の姿があった。「一体どうしたんだ?瑛介と何を話した?」その問いに奈々は唇を引き結び、聡の手を振り払って黙り込んだ。皆の前で、自分が瑛介と「友達」だと認めさせられると教えるの?そんなこと絶対に言えない。友達の立場は、自分にもう少しチャンスが残されることを願ってのことだ。ただの友達になりたいなんて、そんなの本心じゃなかった。「僕と奈々の間には、何もないから」彼女が迷っている間に、瑛介は弥生の方を向き、真剣な顔でそう言った。奈々は目を見開き、その光景に言葉を失った。唇を噛みしめすぎて、今にも血が出そうだった。あの五年間、彼は何にも興味を持たなかったはずなのに、今は弥生に対してこんなにも必死に説明しているのは想像できなかった。弥生は眉をひそめた。もし最初の言葉だけだったなら聞き流せたかもしれない。だが、今となってはもう無視できなかった。瑛介はそのまま彼女の手首を掴み、まっすぐ彼女の目を見て言った。「信じてくれ。僕は五年前に彼女にはっきりと言ったんだ」二人の子供が顔を上げて、そのやり取りを興味深そうに見つめていた。そして、ひなのがぱちぱちと瞬きをしてから、陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、おじさんとママって、前から知り合いだったの?」陽平は口をキュッと結び、ひなのの手を取ってその場から引っ張った。ママの様子を見て、子供が関わるべきではないと悟ったのだろう。弥生は自分の手を見下ろし、それから瑛介を見て、手を振り払った。「それで?私に何の関係がある